彩色が復元された小堂

TEXT
READER

元和2年(1616)に三井寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されました。明治42年(1909)に三井寺南院に移され、さらに昭和31年(1956)の解体修理にともない現在地に再度移築されました。
禅宗様を基調としながらも組物などに和様をとり入れた折衷様の仏堂で、毘沙門天をまつります。正面の桟唐戸花狭間など細部意匠にまで桃山時代の秀麗な様式を受け継いでおり、平成元年(1989)には往時の華麗な彩色も復元されました。

“三井寺五別所”

三井寺の別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するため本寺周辺に設けられた別院で、近松寺、微妙寺、尾蔵寺、水観寺、常在寺の五寺院を総称して五別所と呼んでいる。
本来、別所とは大寺院の庇護のもと本拠地から離れた聖別された場所に営まれた宗教施設で、世俗の縁を離れた遁世者や諸国を遊行する聖や山伏などが集まる場でもあった。

“尾蔵寺”

三井寺五別所のひとつ。平安時代に三井寺の慶祚阿遮梨(955~1019)が、天智天皇ゆかりの志賀寺にまつられていた十一面観音像を本尊に迎え創建したと伝える。この尊像は、江戸時代になると観音さまのご利益を求める参詣者が押し寄せ、かぶっていた笠がぬげるほど混在したことから「笠ぬげの観音」と呼ばれ信仰を集めた。現在は、重要文化財に指定され、三井寺文化財収蔵庫で公開されている。尾蔵寺の堂社は明治期に廃絶し、跡地は大津市によって「長等公園」として整備され、平成7年(1995)には大津市長等創作展示館・三橋節子美術館も開館し、市街地に隣接した緑豊かな都市公園として市民に親しまれている。

“禅宗様”

鎌倉時代初めに中国から主に禅宗の僧侶たちによってもたらされた建築様式。唐様ともいう。

“組物”

組物

主に柱上にあって、斗と肘木(栱)を組み合せて、軒の垂木を受ける丸桁(がぎょう)を支える仕組み。斗栱、斗組ともいう。

“毘沙門天”

毘沙門天

四天王・十二天の一つ。須弥山の中腹北方に住し、夜叉・羅刹を率いて北方世界を守護し、また財宝を守るとされる神。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、片手に宝塔を捧げ、片手に鉾または宝棒を持つ。日本では七福神の一つともされる。また多聞天とも訳し、四天王を列挙する場合には普通この名称を用いる。別名を倶毘羅(梵語Kubera)といい、インド神話では財宝の神。

“桟唐戸”

桟唐戸

框の中に桟を組み、その間に薄板や連子をはめ入れた戸。

“花狭間”

花狭間

禅宗様のもので、多くは桟唐戸や書院の欄間などに用いられる。格子の組子に花形を付けたことから花欄間ともいい、この組子を「花組子」「花子」という。

“桃山時代”

時代区分の一つ。16世紀後半、豊臣秀吉が政権を握っていた約20年間の時期。美術史上は安土桃山時代から江戸初期を含め、中世から近世への過渡期として重要。特に豪壮な城郭・殿邸・社寺の造営やその内部を飾る障壁画が発達。また、民衆の生活を示す風俗画の展開、陶芸・漆工・染織など工芸技術の進歩も著しい。

江戸時代(元和2年 1616)
正面一間 側面二間 一重 宝形造 檜皮葺