“智証大師”
弘仁5年(814)、現在の香川県善通寺市に生まれる。父は和気氏、母は空海の姪に当る。15歳のときに比叡山に登り、義真(778~833)の門弟となり、仁寿3年(853)、40歳のときに唐に渡り、天台山や長安で天台学や密教を学んで日本に伝えた。唐から持ち帰った経典類を三井寺の唐院に納め、自ら初代の長吏に就任して三井寺を天台別院とし、後に寺門派の総本山として発展する基礎を築いた。貞観10年(868)には第5代天台座主となり、23年余の長きにわたり仏法の隆盛に尽し、寛平3年(891)10月29日に入滅した。
“桃山”
時代区分の一つ。16世紀後半、豊臣秀吉が政権を握っていた約20年間の時期。美術史上は安土桃山時代から江戸初期を含め、中世から近世への過渡期として重要。特に豪壮な城郭・殿邸・社寺の造営やその内部を飾る障壁画が発達。また、民衆の生活を示す風俗画の展開、陶芸・漆工・染織など工芸技術の進歩も著しい。
“狩野光信”
桃山時代の画壇を牽引した狩野永徳(1543~1590年)の嫡男。父永徳とともに織田信長、豊臣秀吉に仕え多くの作品を手がけたが、その多くが失われた。そのなかで三井寺勧学院客殿の作品は、光信の作風を知る代表作となっている。(1565~1608年)
“勧学院客殿障壁画”
一之間は金碧の四季花木図で、北側の襖4面に梅、檜、北側襖の東隅から東側襖に連続して鉾杉と桜が描かれ、東側襖の南二面には水辺の岩影に石楠花、南側の舞良戸四面に紫陽花、菖蒲、杉林、紅葉が描かれ、西側の大床壁貼付の滝と雪山に続く。いずれも父永徳とは作風を異にした光信独特の静謐で優美な空間を演出している。
二之間は二十四面に描かれた素地着色の花鳥図。北西隅の左右に描かれた二本の松を中心に松に藤、山鳥や鴨、鴛鴦、さらに東側に竹に雀、岩にセキレイ、南側の水辺の芦に鷺などの鳥を交え、ゆるやかに季節が移ろいゆく山野の自然を清新な感覚で表現している。
“十一面観音立像”
三井寺別所・尾蔵寺の旧本尊。頭部から台座の蓮肉部までヒノキの一材で造る。檀像彫刻と呼ばれるもので、豊かな頬をもつ面貌や肉付けの豊かな体躯など独特の風格を示し、華麗な透かし彫りの胸飾や精緻な天衣の彫り口などに特色をもつ数少ない平安初期の天台密教彫刻として貴重な尊像である。
“訶梨帝母倚像”
ヒノキの寄木造で、右手には吉祥菓(ザクロ)を持ち、左手で幼児を抱き慈愛に満ちた眼差しを向ける。鮮やかな彩色や截金(きりかね)文様の残る宋風の衣をまとい半跏して榻座(とうざ)に腰を下ろしている。慈愛に満ちた表情や衣のひだの的確な造形など、鎌倉初期彫刻の写実的表現の特徴が発揮されている。
“吉祥天立像”
日本では奈良時代から幸福・美・富を顕す神として信仰されてきた。ヒノキの寄木造。左手に宝珠を持ち、頭部の髻を布で覆い、宋風の衣をまとってスラリと立つ姿は福徳を司る女神像にふさわしい。貴婦人のような気品に満ちた表情や流麗な衣文表現など鎌倉初期の写実的表現が遺憾なく発揮された優美な女神像である。
“智証大師坐像”
三井寺の開祖・智証大師(814~891)の坐像で、唐院に安置されている国宝の中尊大師像を模刻したもの。頭部から膝部、裳先にいたるまでヒノキの一材から彫り出した一木造。全体に美しく彩色され、穏やかで優しい表情に人々の智証大師への尊崇の篤さをうかがうことができる。